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花尊し

花尊し

供養


供養についての Q & A

Q 我とは
A 我とは常一主宰の義なり。
常とは「永遠なるもの」、「いつまでも変わらないもの」
一とは「部分品でできていないもの」、「部分に分割できないもの」
主とは「何かに従属していないもの」、「それだけで独立して存在しているもの」
宰とは「自分をコントロールしているもの」
つまり
常一主宰とは
「永遠に存在し、部分に分割できず、それだけで独立して存在し、
自分を思うように動かせる存在物」ということになる。
そして「無我」とは「そんなものはこの世には無い」ということ。

Q 霊魂は存在するか
A 釈尊は我を否定した。
しかし、無我ということになれば神や霊魂の存在が危うくなる。
神や霊魂を認めない、となると寺や坊主は居心地が悪くなる。
だんだんと仏教は変質していった。

Q 供養とは
A 供養(くよう)とは、供給資養(きょうきゅうしよう)からきた言葉で、のちに、
亡き人の霊は生れたばかりの子供で養育が必要、子供養育と曲解された。
1) 【子供養育】亡き人の霊に供え物などをして、その冥福を祈ること。追善供養。
2) 【供給資養】仏・法・僧の三宝を敬い、これに香・華・灯明・飲食物などの供物を真心から捧げること。

三宝や亡き人の霊に供え物をし、お経を読むのも供養であり、その善行を他にめぐらし、
自他共に救われてゆくことを資(たす)け、更にそれによって共々養われていくことも供養である。
香典、供花、供物は全て供養のためであり、葬儀や法事を行うことも、
会葬者に品物を配って徳を積むのも供養として行われる。
仏教の構造では仏に供養しこれを死者に振り向けるという回向の形になる。

Q 仏、法、僧の三宝とは
A 生きた教えを説く仏教の基本は、
仏、法、僧の三宝(ブツ、ポウ、ソウのサンポウ)を敬うことが正しい信仰といえます。
お釈迦様をはじめとして阿弥陀如来、大日如来、観音菩薩等が「仏」とされ、
寺院にお参りして御本尊様に手を合せて礼拝する、この拝む心が仏(ほとけ)であって、
亡くなった人の事だけを仏と言うのではありません。
次に、法というのはお釈迦様が悟りを開かれて以後の
尊い説法(せっぽう)等の内容を真理(しんり)と言い、その教えを法として敬います。
三つ目の僧は仏事供養をする際に参列した人々を僧伽(さんが)(集まった人々の姿、つどいのちから)
と言い、その人々に対して僧として敬う心を言うのです。
僧侶に対してもこの心が大切な事はいうまでもありません。
仏、法、僧の三宝としての三つの言葉がいつもひとつの信仰として集約されているのです。
すなわち拝む心が仏教としての信仰なのです。

Q 慰霊とは
A 死者の霊魂の存在を認めない仏教に、死者の霊を慰める儀式があるはずはありません。
供養は仏教にあって大切な事柄でありますが、「死者の冥福を祈る」ためになされることではありません。
法要も、慰霊・鎮魂の気持ちで行われるならば、それは「気の毒だ」という高慢な感情の表れか、
「安らかに眠って、恨みを持って祟ったりしないでくれ」という、
利己的な功利心の現れと言えましょう。
浄土真宗のお経は、お釈迦さまの み教えを文字にあらわしたもので、
「まじない」や「呪文」ではありませんし、
亡き人の「供養」や「慰霊」、「死者への鎮魂歌」でもありません。

Q 追善回向(ついぜんえこう)とは
A 浄土は極楽と言い、何が極めて楽なのかと言えば、
それは娑婆の苦労(例えば空腹や暑さ寒さなど)から開放され、ひたすら仏の教えを信じ、
実践するのに最適であるということから極楽と言うのです。
ここでの修行の糧として大切なのは生前に積んだ善行の功徳です。
地位も金銭も代えることは出来ません。
遺族は死者の冥福のためにこの娑婆(現世)で死者に代わって善行を行い功徳を積むことが大切です。
このことを追善といいます。
またこのようにして積んだ功徳を法事の際に、死者への供養として回向します。
回向とは功徳を我が物とせずに他に振り向けるということです。
大勢の人を集め、どのようなご馳走をしても追善の心が無ければ本当の供養にはなりません。
さて、善行とは何でしょうか。
最もすばらしい善行は、自らの心に仏さまを頂きその慈悲心を実践することでしょう。
天台宗では心に仏さまを頂くことを授戒といいます。(生前授戒)

Q 家で簡単に供養するには
A 仏壇に飾る品は、基本となるのは、お香・花・灯明です。
お線香を焚くのは、仏様に身も心も清浄にしてから近づかせていただくためで、
線香でも抹香でもよく、香炉で焚きます。
花は、仏様に花のような清浄な心で、徳を讃美し、ご本尊に向かって左側に置きます。
灯明は、仏様の知恵をあらわしている光明にあたり、浄火を燃やすという意味を持っており、
ご本尊に向かって右側に置きます。
仏壇のない方も、香炉・花立て・ローソク立ての3点をそろえれば、家で簡単に供養ができます。
線香も煙の少ないものや、香りが自然なものが出ています。
お線香をお供えすることは、香煙を通じて仏様とお話するなどといわれております。
仏前での御焼香は仏・法・僧への帰依を意味して3回行うといわれています。
お線香も仏・法・僧にならい3本立てるのが一般的だといえるでしょう。

Q 誰を供養する?
A 供養には、亡くなった人を供養する死者供養(葬式)と、先祖を供養する先祖供養(墓参り)がある。
私達が死者供養、先祖供養をしているのは宗教的な感覚ではなく、習俗的な感覚で行っているのである。
これは原始時代からの習俗で今に伝わっているということである。

Q 日本人の霊魂観とは
A 日本人の霊魂観には、死後まもない魂は、ケガレが多くそのままにしておいては、
祟りやすく恐ろしいと言う観念が濃厚に存在し、即ち新魂(あらみたま)は、同時に【荒魂】で、
子孫の社会に災をもたらすものと考えられた。
荒魂を一定の場所に封鎖、鎮魂するため、宗教的儀礼が行なわれたと魏志倭人伝にある。
魂には重さがあると考え、子孫に追善供養してもらえない魂は、いつまでたっても軽くならないで、
生前の罪を背負ったまま、地獄の底に沈殿して【うかばれない】のである。

Q 仏教の伝来後は
A 仏教の伝来に伴って、教理としての仏教と言うよりは、
お経や念仏の力によって生前の罪を滅ぼす事が出来ると信じたのであった。
庶民が罪と感じるのは、社会に対して迷惑をかける行為で、その罪は、社会のために
何か良い事を行なう事、つまり善根(善行)によって贖(あがな)うことができると考えたのである。
善根をする事【作善】は、本来は生前に行っていくべものであったが、
家族や子孫が、本人の死後代って行なう、つまり追加して善を行なう【追善】になった。
僧侶に読経してもらったり、社会に対し善根を積むことが追善なのである。
日本人の運命共同体の荒魂意識に、仏教の慈悲の教えが加味され、
一周忌、三回忌と追善供養の贖罪鎮魂儀礼を経過するに従い死者の霊は浄化され、
やがては、神、仏に近づいていくと考えた。

Q 後生とは
A 死も一つの節目であり、葬式は、再出発点であり、あの世に逝き、神様になった魂が
再び、この世に生まれ変わってくるサイクルを考える。
生まれてから亡くなる迄を半生と呼び、残りを後生と言い、
両方併せて初めて人間の一生と考える。

Q 供養、子供養育とは
A 葬式の目的は、亡骸としての遺体を隔離する処方であると同時に、
亡くなった人から抜け出た魂を子供とみて育てていくことがある。
百才で往生しても、そこから出た魂は百才ではなく赤ん坊と同じで、
赤ん坊の魂はどこへ行ってよいかわからない。
お供えをすることによって、その周りに居てくれるのではないかと、
魂がどこにも行かないように御飯を山盛りして、止まりやすいように箸を立てた。
供養ということは「子供養育」の中の二文字をとった感覚である。
今の時代では、人が亡くなるということを、生きている延長線上で考え、
百才で亡くなったら、漠然とその百才のおばあさんのイメージで見守ってくれている
と思っているが、そのため、魂をなだめる手立てを勘違いしている。

Q 戒名と33年間の供養とは?
A 亡くなった人から抜け出た魂は赤ん坊であり、育てていかねばならないが、
魂を育て面倒を見る人が喪主であり、33年間の供養をしていく。
33年たったら魂は神様になるが、喪主はそこまで面倒は見れないので、
坊さんに頼み、任せる訳である。
坊さんは喪主に代わり、里親になって、魂を大人に育てるということで、
弟子にして付ける名前が戒名である。
坊さんが戒名を授けて幼い魂を責任を持って育てていくことが、
仏教で云えば成仏させてゆくという観念に結びつくのである。

Q 戒名料は33年分の養育費?
A 葬式では、お経をあげて頂いたお礼と戒名をつけて貰った命名料を、お布施としているが、
これは実は、魂の33年分の養育費を支払うということなのである。
葬式の目的は、この魂をきちっと育てるということを儀式の中で表明するということもある。
初七日、49日があり、順に法事を重ねて33回忌で弔いあけとなる。
そこから先は供養しなくてもよい。
33年(年忌供養は数えであるから33回忌で満32年)もの永きにわたり
金を取るようになったのは江戸時代、檀家制で腐敗仏教となってからである。

Q 33年たったら魂はどうなるか
A 33年たったら魂はどうなるかと云えば、
神様になって、先祖の神様いわゆる祖神、氏神という形になって神棚に祭り、色々なお願いをする。
魂が子供では駄目であるが、33年たった大人であるから、聞いてくれるわけである。

Q 庶民の仏教理解とは
A 生きている人間はなまじ肉体を持つ故に、有限である。
しかし霊は、その有限なるを捨てた為に、無限であり、万能になったのである。
仏教の説く『ほとけ』は、即ち覚者であり、
正覚を得た者、悟りを得た者と、無限・永遠・万能になった霊は、同列と解し、
死者・祖先の霊・そして仏教の説く『仏』この三者は同じものであるというのが、
庶民の仏教理解であり、それ故、仏檀は
1) 仏教信仰の対象として仏を礼拝して、その加護を願い、奇跡を祈る聖檀であると同時に
2) 先祖を想い感謝して加護を祈る祭檀でもあったのである。

仏檀で朝夕冥福を祈り、亡き人の霊と共に生きているという慰めの心を持ち、
先祖を意識し、より良く生きたいと言う願望を、仏教に託してきたのである。
それは現在の自分・過去の霊魂・未来の子孫、全ての者がより良く生きることへの切実な祈りであり、
焼香によって、香の煙が空中に漂い、あの世に逝った人や先祖に自分の気持ちと祈りが通じると信じ、
焼香と言う動作に心をかよわせてきたのである。


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